昭和45年2月5日 朝の御理解



御理解第七十八節 「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら家柄人筋となって、これが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわ ぬと、身代もあり力もあるが、まめにない。まめで賢うても身代をみたすことがあり、また大切な者が死んで、身代を残して子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから、互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き身代もでき、一年まさり代まさりのおかげを受けることができるぞ。」

 今日は早朝から、朝の御祈念に引き続いての事でございましたが、平田会長をお招きしての信心のお話を頂き、又、お互いも、信心のとても体験を積んだ者でなからなければ話せないこと。実際にそこを通った者でないと言えないこと、本当に現代の金光教の信心の最高峰と思われる、平田会長のお話を頂いて、もう実におもしろうおかしく、又は本当に熱烈なお話をいろいろ叩き込むようにしてお話を頂きました。
 けれども、とてもとてもああいう素晴らしい信心がです、一遍に私共に分かろうとはとても思われない。ですから、本当に、私共、段々信心を積んで参りますとね、はあ平田会長が、言うておられるのはここだと、いや分かることだけなら、合楽の人達は分かると思うのですよ。いつも、親先生が言うておられる、あそこだといったようなふうに分かるだろうと思うのです。
 けれどもね、実際に、そこを地でいくというか、自分の生活の上に、又は、自分の信心の在り方の上にですね、それを行うていくということは大変にもう難しい。いわゆる、私は、哲学以上の哲学だと思うですね。もう、とりわけ、甘木の先生の御信心なんかに触れたら、とても、私共には、分かりませんです、おぼろげには分かっても。
 それを例えば、平田会長等は身をもって、こなしておられる。いわゆる、五十六年間という長い間、そのことに取り組んで、もうそれこそ、場合には暗たんたるところも通っておいでられる訳なんですよね。
 私、今朝方ね、お夢〔を〕頂いたんですよ。『それがね、公認の博打場なんですね。それが、やはり、合楽の信者が中にいっぱい入っているんです。それが、真っ暗な中ですよね。その博打屋が面白い。御結界があるんです(笑)。丁度、田舎お芝居の花受け場のような感じでね、そして、それが、どういうことかというとですね、もう絶対、もう絶対勝つ博打なんですよ。もう負け目のない博打なんです。そういうような、博打場風景というものをですよね。』
 ですから、私は、博打をしたことがないから、分かりませんけれども、やはり、博打にとりつかれたら、止められないらしいですけれど、ひとつのスリルといったようなものが〔ある〕。負ければ負けたでですね、とり返す迄は、という訳なんです、普通の博打は。
 ところがね、御信心の場合も、そういうような感じのところがあるけれども、これは、もう絶対大地を叩く程に間違いない程にですね、とり目だけしかないという、博打なんです。私が今朝、お夢頂くのがね。
 どういうことだろうかと実は思うておったんですけれども、今日、この七十八節を頂いてですね、私は、信心とは博打のね、まあ、大変な言葉ですけれどもね、博打のようなものです。しかもそれはね、もう絶対負け目のない、もう言うならば、親先生任せですかねえ、どのような場合でも。
 よし、先生が地獄道へつながってござっとうと思うてもです、地獄道へつながっておっても、さらさらいとわんという位なやはりスリルがいる。私が亀なら、皆さんは浦島太郎、龍宮城へ着く迄は、どういうスリルがあるか分からん、けれども、亀の背中へ乗ったら、もう絶対龍宮行きだけは間違いがないという意味での、博打風景っていう〔のは〕、そういうことだったと思うんですがね。
 問題はその途中なんです。だから、途中で降りたら、もうぶるぶると溺れてしまわなければならなかったり、言わば、途中でその博打〔場〕を出たら、真っ暗い所ばかりで、なにも得るものがなかったということになるのであって。
 そこんところがですねえ、例えば、今日、会長が言われる最高のところですかね、例えば、甘木の初代と心身共に、共にするという覚悟でおられたといったようなね、お話がございましたですねえ。
 甘木の初代が金光大神の御教の素晴らしき実践者であられた証拠に、あれだけの実証を証をあれだけの御比礼によって、現された訳なんです。
 そこを例えば、平田会長の場合なんかは、もうそれこそ、とにかく親先生に似ることだという位な純粋な考え方でね、もう親先生の御信心についておいでられた。「金光大神の言われたことが、私共で分かるならね、もう先生はいらん」と極言しとられましたですね。それをね、身をもって、行じて現しておられる先生こそがね、私共の金光大神だという訳なんです。
 ですから、そこんところ迄ですね、傾倒するするためには、例えばここで言うなら、私と皆さんがです、どれ程、これからまた修行させてもらい、どれ程、私が皆さんにそれ程、信じられる取次者にならなければならないか、また皆んなもです。そこんところをですね、様々なスリルがある、もうこれで難しかっじゃなかろうかと言うとるところもあろうかとも、思うんです。私が幼稚であれば、幼稚である程。
 けれどもね、そこんところの信心の度胸を、いろいろな難儀な場合に直面して体験することは怖いことではなかった、信心させて頂く者の前には、怖いことがあるはずがない、困ったと言うことのあるはずがない、あるものは、全てが神愛なんだと、あの怖い思いをするあのことはね、いわゆる私に、信心の度胸をつけて下さるための、神様の御神意、御都合より他になかったんだと、いうふうなことが、体験によって、段々積上げられる。もういい加減、体験積んだから、もういよいよ任せになれるかというと、また実際はなれない。そこんところの繰り返しがね、一途に、私はその、繰り返されていくところからね、神様の働きが段々分かってくる。
 例えば七十八節の最後のところに、「神のおかげを知らぬから互い違いになってくる」と、こう言う。神のおかげを知らぬから、神のおかげを信じたらですね、互い違いになるはずもなからなければ、おかげの受けらないはずもない。
 だから、その神のおかげをおかげとして、話して聞かせてもらえばね、はあ、なるほどおかげだなとか、ここにもございますでしょう、「信心して神の大恩を知れば」と、こうおっしゃる。
 本当に神様の大恩恵の中に、私共が生かされて生きておるんだということを、例えば、そんなら、高橋正雄先生流にですかね、微に入って細にわたるように説明させて頂きますと、学理的にも、確かに、神様の、この神様のおかげを頂かなければ、ここ一寸(いっすん)を実は動かれない私達なんだ。障子一重が、ままならぬ人の身であることが分かれば分かる程、この神様のおかげを頂かなければならないことが分かってくるんです。分かることは、すぐ分かる。話を聞くと大体分かる。
 ところがですよ、そんなら、そういう、例えば亀の背中にまたがって、龍宮に行く迄はというような度胸というものは、なかなか、そこが分からない。「神の大恩を知れば無事達者で子孫も続き」、だから、いかに神の大恩をですよ、本当に身をもって心をもって分からなければならないかということが分かります。
 そこでです、その神の大恩を、本当に自分の身にも心にもですね、分からしてもらい、それを実感をもってまた人に伝えられるところ迄、いわば平田会長のお話を頂いとりますと、もうここに神様がござるごたる。もうここに、甘木の初代がまあだござるような感じがする。それを自分が受けて、それを行じて、そしてここに現して、それを話にしていかれるのですから、そういうものを、私共は感じることが出来る。
 感じることが出来る、又、知ることが出来ますけれども、それは、と言うて、なら会長さんの言われるようなことがすぐ地に現していくということは、なかなか難しいこと。
 そこで、私は思うですねえ。その神の大恩を本当に分からせて頂くことのためにですね、私がこの寒修中、この中ば頃から皆さんにお話して参りましたように、具体的なですね、具体的な信心の稽古の在り方としてです、「女が菜園に出て、菜を抜く時、大地を拝む心あらばおかげがある」と。
 いわゆる、お野菜一本頂かせて頂くでも、大地を拝むという、いわゆる実行から、まずやっていく訳なんです。これはお野菜に限ったことじゃありますまい。もう全てのこと、自動車なら自動車に乗る、乗る時にも拝むなら、降りる時も拝むという在り方なんです。「それを煮て食する時、神様頂きますという心あらば、さわることはなし」。それを、私は、自分の五体で体験してきた事を、皆さんに繰り返し繰り返し聞いてもらいしましたがね、私が七年間位でしたかね、足が動きませんで、萎えてしまって立てませんでした。
 けれども、私のこの御結界奉仕というものは、それこそ、半日だって、それをおろそかにすることはございませんでしたし、いわゆる有り難く頂く心あらば、当たることがないとおっしゃる、さわることがなかった訳です。さあ大祭だ、さあ月次祭だという時には、足がしゃんと立ちよったです。そんなら、私が糖尿病だ、腎臓病だというふうに、こう言われるようにならせて頂いてからもです、その糖尿病のおかげでというものを、あちらでもこちらでも感じることが出来たです。皆さんも、それを見ておいでられた通りなんです。現在も糖尿病であるし、やはり、腎臓病はまだ以前とそのまま。
 けれども、私は、皆さん御承知のような生き方で糖尿病が、この御用にはさわらないです。それは頂く心があるからなんです。もう、ここ二十日あまり、私が風邪声でありますように、皆さんが一週間も、今度はひどい時は、十日も寝着いたきりですけども、私は毎日御用が出来ております。風邪を頂いておるからなんです。
 ですからね、頂く稽古からするんですよ。まず大地を拝むところから、稽古をやっていくんです、そしてね、そこに生まれてくるところの体験、なる程、神様じゃなあと、なる程、自分の心がこのように、頂き方が変わってくる、見方が変わってくるだけでです、神様を心に感じることが出来る。
 それから、最近ここ十日余り申しておりますことが和賀心時代ですよね。もう世は正にコンピュ-タ-時代だとか、人間が月の世界に行けれる程しのことが出来れるようになって来た。とにかく、何千年か何万年かは知らないけれどもですね、いわゆる地球上に人類が生存するようになって、この方、やはり、お月様は、まんまんしゃまと言うような意味合いに於いての、お月様であった。
 ところがですね、去年、いわゆる今年に入ってですね、あのお月様の世界へ、私共が行けれるという時代なんですよ、大変なことです。そういう時代に私共は、もう突入しているんだと。そうしてそういう例えばですねえ、人間の智恵やら力で、最高の技術、最高の学問、人間のぎりぎりの限界のところまでいっておる。
 いわゆるコンピュ-タ-時代であり、月の世界へ行けれる時代なんだ、ということなんです。そして、そういう技術人の方達がです、最高のものを極めて極めて、現在絶叫のように言っていることが心だと言っております。
 これだけの事が出来たから人間は幸せになるのじゃない、ということが、これ以上の事が出来ない事が出来る学問なら、学問を極めてみてです、初めて心の時代。だから心だけではつまらんのです。それはまあ、修養とか道徳ぐらいの事しか出来はしません。
 そんならね、心にはですね、おかげは伴ないません。「心清かれば魚住まず」と言う。それではつまらんでしょう。ですから、私はもう絶対ですね、和賀心時代が来る。いや、もうそれに突入しているんだと。そして、和賀心でなからなければ人間が幸せにはなれないという時代が必ず来る。
 もう地球上の全人類にですね、そのことを教育しなければならない時代がくる。総理大臣は、そういうような本当の〔心の〕体得者でなからなければ総理大臣になれない時代が来る。それは千年先か万年先か、それは分かりませんよ、ね。
 けれどもです、「おかげは和賀心にあり」と、いわゆる天地書附を私共は日々、拝唱さして頂いてですね、和賀心でなければおかげは伴わないのです。だから、和賀心とは和賀心とは、ということになるのです。和賀心を求めての時代、又は、それを追求することの勉強。
 私は昨日ね、丁度、二時頃でしたかティ-タイムショ-てゆうのがあってましょう。あれを丁度見せて頂いておりましたら、まあ教育ママ風の方達が五人ぐらい出てですね、夜通しに勉強する子供達に、お夜食を作ってあげる訳です。それを色々ね、どんな御馳走を作られるか、まあ頭の良くなるお食事だといったようなテ-マだったようです。途中からだったから、〔よく〕知りませんのですけれども、もうとにかく、もう猫も杓子も同じことだということです、ね。
 ですから、もうちゃんと、うちにはね、何んと言うですか、ベ-コンもソ-セ-ジもハムも、様々な皆さんが頂いておられるような値段の高いですね、お野菜とかそういうものをいつも冷蔵庫の中に入れとかなければ出来ない。そして、自分はこういうパンを作って出しますとか、おにぎりでも、例えばバタ-で炒めてこうこう致しますといったような、まあ言うならば、猫も杓子も同じようなことを、作って説明しておられましたが、本当に私は思いましたね。
 中に一人位、私共には、もう遅うまでね、勉強を子供達が致しますが、もうありあわせでね、茶漬けで、お漬物のおいしいものでも食べすぎないように添えてやりますとか。それでいて、私共の子供は健康でもありますし、おかげでこういう立派な息子も育てることが出来ましたというようなね、お母さんが一人でんあるじゃろうかと思いよったら、結局、猫も杓子も今の化学調味料的な物ですかね、そういうようなものを使わなければ、頭の良くなる食物は出されない、作れないと言う、ママさん達の模様をテレビで報道しておりました。
 私は丁度それを見せて〔頂いて〕。ああ、それからですね、皆さん、学問というものがいかに、中途半端であるかということ《を》、中で先生が言ってました。
 それの中には、ほうれん草も入れていいんですかという訳なんですよ。それは、入れてもいいけれど、あれは必ず一遍、湯がかなければいけません。あれにはね、何かという食べてはいけない毒素のようなのが入っている〔と〕。
 私はそれを聞いて驚いたんです。私どん、ついこの頃までですね、ほうれん草というのは、湯がき汁を捨てちゃもったいないという時代があったでしょうが、もう根も葉も汁でも頂くことが栄養だと。ところが、今の栄養学ではですね、もう、あの汁を食べてはいけないと言ってますよ。まあだ、どの位い変わるやら分からん。
 だから、私は、栄養学もよかろう、いわゆる科学も医学もよかろう。けれども、本当にその医学を科学を栄養学をです、もっともっと根本的な和賀心というのがいるて。和賀心、和賀心っていうものを人間が頂く為には、どういう生き方、在り方にならせてもらわなきゃならんかという、学問的にした学問なんです。
 和賀心時代には必ずそういう学問が出来るです。そういう意味で私どもはです、日々にその和賀心を求めての信心、どのような中からでもです。
 さっき平田会長が話しておられました。例えばね、どんなに苦しいことの中にでも、それが楽しいと。楽しいようなものが、その中から生まれてくるような心なんです。
 昨日、ある学生が参って来てから、私が和賀心時代を話しておったら、「和賀心ちゃあ、一体大体どんな心ですか」ち。まあ、それは本当に説明は出来ないけれどもね、まあ私が究めて、現在言えることはね、「どんな場合に直面してもです、言わば、不懐(ふえ)のもの、壊れないもの。どんな時に直面してもです、そんなら、その信心の喜びというものがです、崩れないもの、和賀心とは、そんなものなんですよ」と言うて色々説明したことなんです。だから、そういう心を求めていくということ。
 私は、そういうテレビを見せて頂いてです、丁度、中原に佐田さんが親戚の方というて、お導きっていうか、まあ私に会いたいというお婆さんがおられ、八十になられる。西久留米の教会で長年信心の稽古をしておられるという。初めは長い間、天理教の信心をしておった。ところが、どうも感じるところがあって、信心をやめたところへ、金光教の信心のお導きを頂いて、西久留米の先生の大徳、お徳に触れて、まあ現在まで信心の稽古をしておると。八十才と言われるのにですね、もう本当に驚くばかりの元気ですね。
 そして、「お話に来た」ち言うてから、帰りがけに言いよんなさいましたですもん。「考えてみますと、今日、私は、自分ばっかりお話したごとあるですの」ち。けど、「又、出ていらっしゃい。今度来た時に、私がお話しすることにしましょう」ち、言うて帰られましたが。
 その方のお話を聞いておってですね、こういう人がね、こういう人がテレビに出てからお話をしなさらんならん時代が来る。というのはね、私はここに参りまして、お手洗いのお水をね、合楽の御信徳のこもった、このお水を頂かしてもらう。又、一人別に連れて、別に初めての方を連れてみえた。だから、「このお水を頂きなさい」ち〔言うて〕。
 私は、御馳走というものを頂きません。佐田さん所あたりに来て、お婆ちゃんがみえたから、御馳走するとね、頂絶対食べなさらん。もう、お漬物やら、おいしくないものばっかりをよって頂かれる。お掃除はもうお便所から先にされる。というような、それでいて、息子さん達は立派に、栄養失調にもならずに、もう立派におかげを頂いておる。
 いわゆる、私が先程から申します、頂く心と和賀心なんです。あれをとらなければ、これは食べなければと。なる程、出来た子供は立派に成長した。体格も昔の時代より、ちった大きくなったばってん、中身が出来とらんから、どういうことになるですか。
 かえって、その出来た以上の力で、親をいじめるような子供が(笑)出来るじゃないか。たまらんですよ、力を付けてやる為に、栄養を与えた。その力で今度は、親がくらされるでしょ。(笑)そういうことなんです。もう笑いごとじゃないです、本当に。
 だから、私は、最近皆さんに言ってます。もう絶対、人間が月の世界に行けれる程しの事なのだから、見よって御覧、必ず、あの世に行って、帰ってこられる時代が来るて、もう絶対です。それは、もう、ある意味でですね、心霊学とか、ああいう意味合にでなら、もう霊界との交渉が出来る位、写真が出たりする位。けれども、実際私どもは、行って見て帰って来られる。
 そんかわり、間違えたら、もう行きっぱなしですたいね、そんかわり。(笑)それは、もう月の世界と同じこと。ちょこっとばっかし間違えば、もうどこさ行くやら分からん。だから、大変な難しい事ですから、それとてもです、千年かかるやら、万年かかるやら分からんけれども、そういう時代が来るて。
 行って見て来てです、いかに魂の清まりというものを、知らなかった御霊がどの位に苦しんでおるか、難儀をしておるかということを見て来てから、さあじゃ〔では〕もう遅か。
 そういう意味でですね、私共は地球上に住む人類の全てにです、いわゆる、世界中氏子にです、和賀心を説いて、そして実践して、それを現して聞いてもらわなければならない時代が必ず来る。
 だからまず、私がね、日本国中というよりも、お道の信心をさせて頂いて、日々天地書附を拝唱させて頂いて、「おかげは和賀心にあり」と言うておる、その私共がです、和賀心、和賀心をです、和賀心とは、どうゆうものなのかと、そして、それを自分の身に受けられるとゆうことは、どうゆうことかと、言うて追求させて頂く為には、少しは、例えば、信心にぼうける位な信心が出来なきゃ出来ることじゃなか。
 言うならば本当に、例えばです、ここで言うなら私と皆さんが惚れ合わなければ出来ることじゃない。それこそ、狭い道でも広く通れれる。好きな者(もん)同士なら。
 昨日の朝も申しましたように、雪の荒野を好きな者同士ならば、それこそ、肩を組合って、何処迄続くやら分からん雪野原を、それこそ熱い想いで通っておるようにですね、信心させて頂く者は、だから、私は、信心が好きにならなきゃいけないということ。
 だから好きになる為にお話を頂く。好きになる為にです、それを、修行の上に現してゆけ。生活の上に現してゆけ。そこからです、神様の大恩も分かってくりゃ、天地のいわゆる大恩が分かって来る。
 もう、それこそ、これは、先程、平田会長が度々言うておられましたが、うちの初代位、天地の大恩を感得しておられた方は、他にあるまい。御自信も、それをおっしゃっとった。誰にでも負けんとおっしゃっとった。又、本当にそうだと、私は思うです。
 ですから、その天地の大恩を知っておられたから、この七十八節にもありますようにですね、あのようなおかげを現しておいでられることが出来た。そこで、まず分からなければならないことは、神様の大恩、天地の大恩。
 いわゆる天地の大恩を本当に分からせて頂く。私共は、そこんところが、ほんの手前の手前の手前のところしか分かってない訳です。それは、何故かと言うとです、私共は、その和賀心を追求するものが希薄だからなんです。本当の和賀心をもってしなければ、天地の大恩は分からない。
 だから、そうゆう信心を頂いていく手始めにです。先程から申します、大地を拝む稽古から、又は、それを煮て食する時に頂きますとゆう心あらばという、当たることないという体験を頂く為にもです、全てが頂きますという心あらばということになってくるんじゃないでしょうか。
 同時にギリギリの私という者を見極める、いわゆる障子一重がままならぬ人の身である。そこを、甘木は、[吾よしと思う心を仇(あだ)として、仇(かたき)のように思うて、日毎夜毎に戦いてゆけ]といったような教歌を、お残しになっておられますよね。
 ですから、もう本当に、もうとにかく、あれが悪いのじゃない、自分自身の方へですね、そうゆう追求するものを受けてまいりましてです、本当に、日勝り月勝り、言うならば一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞとおっしゃるのですから。そうゆうおかげは、もう願うてやまないのが、私共なんです。
 為にはね、私どもがひとつ本気で和賀心を求めて行く、和賀心を追求して行く、その和賀心にはです、和賀心にはいらんと言うても、ついて来るもの、それがおかげなんです。その心を持って、あの世へ行くのです。
 この世で、極楽の気持ちを開いておかずして、あの世で極楽があるもんですか。そこんところをですね、一つよくよく分からせて頂いて、人間があの世へ行って帰られる時代が必ず来ると。そして、その時に慌てたんじゃ駄目だ。私共は、教祖の神様の、教えて下さった金光教という信心に縁を頂いて、そのことばかりを頂いておるんですから。
 私共がこれを行じて、実証していかなければならん責任がある。これは、もう金光教の信奉者の全部がです、和賀心というものが、このようにも有り難い素晴らしいもので、このように、おかげが頂けれるという実証者に一人一人が、まずならしてもらい、目指さなければならない。
 その過程に於いて、そこ迄の過程に於いて、信心は、ある意味に於いて博打のようなものだということ。だから、初めから勝つこと絶対というふうに言えば、なんじゃろうけれどもですね、それは、ひょっとしたら、このまましまえてしまうのじゃなかろうかと。けれども、なかなかスリルはありますよ。修行中のなかなかの、やっぱあります。だから、そこのところをですね、私どもが、その過程をね、まあ合楽の方達は、今全部がです、そこの過程にある時だと、私は思います。
 ですから、これをもっともっと、和賀心の追求と、高めていくおかげを頂きましてね、実証してゆきたい。そして、第二の第三のいわば、皆さんが、平田先生という、大平田と言われるような信心をですね、皆さんの一人一人が、そういう信心を現していって頂きたい。そうゆう意味で、今日(こんにち)も大変なおかげを頂いた訳でございます。
 どうぞ、信心をさしてもらう、ひと月も朝参りをさしてもらうと、もう絶対と言うてよい程、和賀心の芽が必ず出ます。ですからね、それを育てていくということがです、信心を育てることなんですよ。
 それは、本当なことは、まあだ他にも色々ありましょう。けれどもね、本当の本当、これは、もう和賀心を追求していくことが一番本当なことなんです。その過程に於いてですね、それを育てていく過程がね、好きにならなければ、育てられないような時がある、又、事がある。
 ですから、本当に信心が好きになる迄、辛抱させてもらわなきゃいけません。信心辛抱、只、永年信心しとると言うだけではいけませんから、只今申しましたようなところをですね、ひとつ極めていきながら、それも頭で分かるだけじゃない、もう、この五体で分かっていく。同時に、心で頂いていくと、頭でも勿論分かっていくといったようなね、生き方が押し進められていって、ひとつ本気で和賀心時代をです、まず私の心に、私の家庭に押し広めて、これが教団全体に、日本全国に、世界の津々浦々迄、人間人類の住んでおる所の限りにです、和賀心でなからなければ、様々な、どんな学問〔で〕もよかろう、けれども、その根底になるものは、和賀心なしには人間の幸せはないんだと、これが大声で叫んであげられる程しのですね、おかげを頂きたい。
 これはね、私が夢の夢のようなことを言うと言わずにです、本当にそれを、私は実践していく以外にはないと思うんですよね。同時に、大地を叩く程に、実を言うたら間違いのないこと、お道の信心のおかげっていうのは。
 ですから、その真っ暗い中にあってもです、どのような中にあっても、そこの中から、ひとつまあ信心を面白いと言うてはおかしいですけれども、それこそ嬉しゅう楽しゅうです、場合にはスリルも感じながらです、信心をいよいよ進めていって欲しいと思います。
どうぞ、今後とも宜しくお願い致します。